築地本願寺 和田堀廟所
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2017 3月
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17/03/15
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17/03/10
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17/03/01
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築地本願寺 和田堀廟所
〒168-0064 東京都杉並区永福1-8-1
TEL 03-3323-0321 / FAX 03-3328-6744
許可番号/26杉保衛環第380号
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吉葉山潤之輔

今年の大相撲は朝青龍関が十回目の優勝を飾り、幕をあけました。歴代横綱の中で「悲運の横綱」とよばれ、雪の降りしきる中での優勝パレードが今も語り草となっている「吉葉山潤之輔」を紹介いたします。
吉葉山が相撲部屋に入門したきっかけは、上野駅で他人と間違われてスカウトされ、そのまま入門したというものでした。当初は北糖山と名乗っていましたが、悪性の虫垂炎に罹り、吉葉庄作博士のおかげで一命をとりとめた後は吉葉山と改名します。その後、十両入りを決めたところで招集を受け、四年間戦地に赴きました。部屋に戻ってきた時には幽霊と間違えられたといわれる程ひどく痩せてしまったため、とにかく体を戻そうと食べ続け、招集から五年のブランクを経て復帰。美男で悲劇性のある土俵歴から大変な人気がでたものの優勝歴は一回でした。この優勝で横綱昇進を決め、大雪の中でパレードを行った「雪の全勝行進」には大勢の人々が参集し、伝説となっています。
吉葉山は史上初の殊勲賞連続受賞や、新聞の前評判で実力第一といわれる程の地力の持ち主でしたが、横綱時代は故障に悩まされ、昭和三十三年初場所で引退を発表します。引退後も宮城野部屋を開設して後進の指導にあたり、相撲協会理事をつとめるなど相撲会の発展に寄与しました。
吉葉山のお墓は桜並木の手前を右手に曲がり、階段を下りた左側にあります。わかりにくい場合はお気軽に職員までお尋ねください。(文中敬称略)
「廟所だより」は今号が最終回となります。二年間にわたりご愛読いただきありがとうございました。(編集者 拝)

和泉元秀

「“いざは”“いま”をおろそかにします」狂言和泉流十九世宗家和泉元秀は、舞台への心構えをこのように残しています。「いざとなってできると思うのは大間違いだ。それは本当に実力のある人にしか言えないこと」常に稽古を本番と肝に銘じながら芸に臨んだ姿勢が、そこに窺えます。
 平成七年六月二十二日、舞台の上で倒れ、それが五十八年の間一度も休むことのなかった舞台の最後となりました。
 ことば(室町時代の日常語)と仕草から成る日本芸能の原点といわれる狂言、その伝統芸能に五六〇余年の歴史を持つ和泉流、その間には親鸞聖人五百回大違忌のご勝縁に、和泉流一門の三宅藤九郎が、西本願寺能舞台に立ったという記録が残されているそうです。
 京都山科を中心にして流派を保ち、七代目宗家から尾張徳川藩祖に抱えられ、二六〇年間尾張に、そして、明治に入って東京に居を移しました。  宗家として五十一年勤めた元秀の伝統芸は、「新作狂言」「狂言オペラ」に見られるように若い世代にも受け入れられる道を拓き、また、海外公演を行っては、世界各地にその魅力を伝えていきました。そして、それは嫡男の二十世宗家和泉元彌に堅実に受け継がれ、さらに私共に身近なものとなっています。
 桜並木の一番奥の参道を左に折れて、突き当たりにあるお墓を訪ねながら、改めて「“今”を大切に」と振り返らせていただきたいものです。(文中敬省略)

幡瀬川邦七郎

今月は名古屋場所の月です。二ヵ月に一度の大相撲を楽しみにされている方も多いのではないでしょうか。相撲の歴史の中で思い出に残る力士といえば多くの名前が出てくるかと思いますが、今回は「名人の上をいく」と呼ばれ、圧倒的な人気を誇った幡瀬川邦七郎を紹介いたします。
秋田県の出身で小学生の時相撲を始め、小学生対抗試合決勝戦で負けると悔しくて泣き出したほどの負けず嫌い。同郷の清瀬川を頼って入門し、郷里の幡野村と清瀬川に因んで幡瀬川と名乗りました。体の柔軟さを生かし、毎場所一敗ペースで異例の出世をとげ、同じ相手に同じ手で負けるのは恥だといって多種多様な技により相手を翻弄しました。特に出し投げから放たれる小股掬いは相手が警戒していても、いつ投げられたかわからなかったといわれるほどの名人芸でした。本人の自慢が「投げは一度も喰ったことがない」ということからもその技量のほどがうかがえます。昭和十五年初場所を最後の土俵としてから後は独自の技術論での相撲解説や「魚雷亭主人」のペンネームで執筆活動を行うなど幅広い活躍をみせ、また、相撲協会の理事を務めるなど終戦直後の大相撲復興に尽力しました。
幡瀬川邦七郎のお墓は桜並木五本目の参道を左に入ってすぐのところにあります。わかりにくい場合はお気軽に事務所までおたずねください。 (文中敬称略)

古賀政男

「古賀メロディー」。昭和五十三年七月二十五日に亡くなるまで三千とも四千ともいわれる曲を作った古賀政男に贈られた言葉である。そのメロディーの数々は戦前・戦中・戦後、そして現代まで人々の心と日本の歌謡界を支えたものであった。
 代表作は『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』『無法松の一生』『誰か故郷を想わざる』等、数え上げればきりがない。そのすべてが代表作といっても過言ではないでしょう。それはやはり、古賀政男が人の心というものを大事にしていたからではないでしょうか。美空ひばりにも「ひばりちゃん。歌は心で歌うんだ」といつも言っていたそうです。作曲活動以外にも明治大学マンドリン倶楽部の創設や音楽親善大使として世界各地をまわるなど、歌というものを通じて人々の心を結びつけていきました。今もその人柄を慕って墓参に訪れる方が絶えません。
 古賀メロディーというと「寂しさ」「哀しさ」が取り上げられることが多いのですが、それを包み込むような明るさと人々を思う心が日本人の心の琴線に触れるのです。仏教も人々の抱くイメージというものは決して明るいものではありません。しかし、その根底にあるあらゆる人々に届けられている慈悲の心が人々を惹きつけてやまないのです。
 古賀政男のお墓は本堂のすぐそばにあります。「心」というものに思いを馳せながら参拝されてはいかがでしょうか。(文中敬称略)

伊馬春部

慌ただしかった年末も過ぎ、新年を家族揃ってお茶の間でゆっくりとお過ごしになった方も多いことかと存じます。
新年にはさまざまなテレビの特集がありますが、その一本一本には番組を構成する放送作家が存在します。テレビの放映が始まったのは昭和十五年。今回はその実験放送で初めての放映脚本を担当し、その後も放送作家や歌人として幅広い分野で活躍した伊馬春部を紹介いたします。
春部は福岡県の木屋瀬が生んだ文人で、放送作家の草分け的存在として有名です。歌人で民俗学者でもある折口信夫に師事した後、伊馬鵜平のペンネームで「新宿ムーランルージュ」で座付き作家のひとりとして活躍しました。春部は太宰治や井伏鱒二とも親交があり、「ムーランルージュ」への橋渡しをしたのも井伏鱒二だといわれています。後に森繁久彌、由利徹等の数々の名優を輩出したこの軽喜劇は若者達に大好評を博しました。その後、NHKのラジオドラマ「向こう三軒両隣」など数多くの人気ドラマを手懸け、先に紹介した実験放送では「夕餉前」が放映されました。放送文化賞を受賞するなど、放送の面で有名となりましたが、各地で学校の校歌を手がけたり、宮中の歌会始で召人を努めたりと、幅広い分野で活躍しました。
春部のお墓は桜並木のつきあたりを右手に入った奥にあります。わかりにくい場合はお気軽に事務所までお尋ねください。(文中敬称略)

水谷八重子

私たちが日常生活をしてる現実とは違った空間を見せてくれる。そんな演劇やミュージカルは今でこそ気軽に観賞することができますが、明治時代までは日本で演劇といえば歌舞伎を指すのが一般的でした。その歌舞伎を「旧派」と呼び、時代の新しい演劇のスタイルを切り開こうとして「新派」が誕生したのをご存じでしょうか。今回ご紹介させていただく初代水谷八重子はその新派を支えてきた大女優です。
八重子は東京で生まれ、義兄・水谷竹紫が劇評家・作家であったのが縁で八才の時に演劇の世界に足を踏み入れました。(水谷竹紫のお墓も同じ墓域にあります)子役を続けながら映画や演劇で活躍、特に演劇では「婦系図」「大尉の娘」「金色夜叉」など主な演目で主役を演じました。映画では「滝の白糸」などが有名でしょう。そして舞台の上では上演中に地震がおきても「私があわてたら、お客様が動揺するし、舞台で死ねたら本望」といって悠々と芝居を続け、大女優ぶりを見せつけましたが、普段はそうした厳しさをみせないおおらかな性格が人々を魅了していたようです。現在は実子の芳重が二代目水谷八重子を平成七年に襲名し、新派の大黒柱として各方面で活躍されています。
新派というと明治時代の名作が多く見受けられますが、その舞台はけっして古さを感じさせるようなものではなく、平成の人々に共感を得て受け入れられ、伝統をそのまま受け継いでいくだけではなく、良いところは残しながらさらに先へ進めていくという姿勢が現在のブームに繋がってきているのではないしょうか。
初代水谷八重子のお墓は桜並木の五本目の通路を右手に曲がった所にあります。 (文中敬称略)

笠置シズ子

昨年の五月に大阪でOSK日本歌劇団が最終講演を終え、惜しまれながら八十年を超える歴史に幕を閉じました。今回紹介する笠置シズ子もこのOSKの出身で、歌や演劇の分野で活躍。終戦後には「東京ブギウギ」が社会現象になるほどヒットし「ブギの女王」とまでいわれます。その躍動感あふれる歌は「当時の疲弊した民衆の心を慰撫し、暗い世相に燦然と明るい灯を点じた」(大阪市顕彰銘文より)と顕彰されるほどの輝かしい功績を残しました。
また、シズ子は一月号で紹介した服部良一とも関係が深く、良一が作曲した中で「ブギウギ」もしくは「ブギ」と名前のつく曲はほとんどシズ子が歌いました。「東京ブギ」も夫を亡くしたシズ子のために良一が作曲したともいわれています。その名曲の数々は終戦後というイメージが強いのですが、人々を元気づける歌は時代を超え今でも歌い継がれています(JリーグのFC東京ではサポーターソングとして使用しています。ゴールしたときに皆が歌っているので聞いてみてください)。
そうして人々に生きる源を与えてくれたシズ子は一九八五(昭和六十)年三月三十日に亡くなり、恩師の良一と同じ和田堀廟所に埋葬されました。
シズ子のお墓は桜並木から四本目の参道を右にはいった所にあります。わかりにくい場合は事務所までお尋ねください。(文中敬称略)

内田吐夢

和田堀廟所の各墓域内には墓碑が建っていることがめずらしくありません。家訓を書いているものもあれば、生前好きだった言葉や略歴など様々ですが、今回ご紹介する内田吐夢の墓域には「命一コマ 内田吐夢」と書かれた墓碑があります。吐夢が晩年に好み、サインや手拭いに印刷して親しい人に配ったといわれる言葉です。映画監督として生涯を過ごし、『飢餓海峡』や『大菩薩峠』三部作、『宮本武蔵』五部作など数々のヒット作を生み出した人物らしい言葉ではないでしょうか。
映画は一秒間に二十四コマの画が回転して映像を作り出します。自分の命はその一コマのようなものであるといっているのですが、人によって受け止め方は違うでしょう。人生は映画の一コマのように短いものだともとれるし、鮮烈であるとも考えられます。また、数々の命(一コマ)によって映画(世の中)ができ上がっており、自分もその中の一つに過ぎないといっているようにも思えるし、一コマ欠けても映画は完成できないように、人生はかけがえのないものであるといっているようにもとれます。
昭和の戦前から戦後まで、激動の時代にあって日本と中国(満州)で映画を撮り続け、満州で敗戦を経験。当時の満映の理事長であった甘粕正彦の自殺に立ち会うなど、その生涯は波乱に満ちたものでした。その吐夢が最後に残した言葉。その言葉もまた映画のように、今も私たちにいろいろなことを語りかけているのです。
吐夢のお墓は桜並木の三本目の参道を右に曲がった所にあります。分かりにくい場合はどうぞ事務所までお尋ねください。(文中敬称略)

高楠順次郎

先月は、宗祖聖人のご誕生をお祝いする降誕会の月でした。この聖人ご誕生の日(五月二十一日)を武蔵野女子学院(現武蔵野大学等)では「同慶節」といってお祝いしています。これは創立者である高楠順次郎が命名したもので、その日を学校の創立記念日にしているからです。 高楠は一八六六年(慶応二年)に広島で生まれ、西本願寺の普通 教校第一期生を経て東京帝国大学に入学後、イギリスへ留学をします。留学中の経験を生かし、世界で初めてとなる外国語による仏教語彙辞典『法宝義林』の編纂を始めました。これは、現在も編纂が続けられてる実に壮大な辞典です。その他にも様々な寺院が所蔵していた経典を校訂し、『大正新修大蔵経』を発刊。日本に資料の少なかった南方仏教資料の集大成である『南伝大蔵経』発刊などの大事業を成功させていったのでした。高楠が私財を投げ打って手懸けたこうした事業は、国の内外を問わず私達が仏教を学ぶための礎となっています。
さらには冒頭に述べたとおり、「仏教精神による人間教育」を掲げ、大正十三年に武蔵野女子学院を設立。築地本願寺境内にあった仮校舎を関東大震災で焼失していた本堂の再建に伴い、現在の地(西東京市)に移転しました。人間性の喪失が叫ばれて久しい現代社会において、「仏教主義による人間成就の教育」を掲げた建学精神は今でも受け継がれ、輝きを増しています。
高楠のお墓は桜並木の一本目の参道を右に入ってすぐの所にあります。わかりにくい場合はお気軽に事務所までお尋ねください。

海音寺潮五郎

日ごとに寒さがつのり、冬も近づいてまいりましたが、秋の夜長には読書を楽しんだ方も多かったのではないでしょうか。一口に読書といっても様々なジャンルがありますが、その中でも根強い人気をもつのは時代小説でしょう。
今回ご紹介させていただく海音寺潮五郎は『天と地と』『平将門』など多くの歴史小説を手がけた作家ですが、特に「史伝もの」または「史伝文学」と呼ばれる作品を多く残しました。しかし、こうした史伝小説を書くためには博い学識と真摯に史実を追求する姿勢が重要となってきます。『武将列伝』や『悪人列伝』などを読むとよくわかりますが、作者が想像して作り上げた人物ではなく、そうした史実に基づいたリアルな人物像が読者を魅了するのです。
潮五郎といえば、もう一つ郷里を題材とした作品も有名です。特に薩摩の西郷隆盛に関する著作が多く、随筆なども含めるとその数は膨大です。『西郷隆盛』(朝日新聞社刊)のあとがきで「私が西郷の伝記を書こうと思ったのは、私が西郷が好きだからです」と自身もいっているように、郷土と西郷隆盛を愛した潮五郎は西郷隆盛が亡くなってからちょうど百年目にあたる昭和五十二年に亡くなりました。
潮五郎のお墓は桜並木の三本目の参道を左に曲がったつきあたりの所にあります。わかりにくい場合はお気軽に事務所までお尋ねください。 (文中敬称略)

樋口一葉

和田堀廟所には現在約四五〇〇基の墓があり、その中には歴史上の人物も少なくありません。ご参拝の際に、歴史を身近に感じていただき、お寺とのご縁が深まればと思います。
 折しも季節は春。気候も暖かく、境内の満開の桜並木の中を散策されてはいかがでしょうか。
 今回は「樋口一葉」。明治文壇において、紫式部以来の才能と謳われた女流作家でした。『にごりえ』『おおつごもり』『たけくらべ』などは皆さまにもおなじみの著作だと思います。
 最近では二〇〇四年に発行予定の新五千円札に肖像が採用されることで話題となりました。
 世の中は不況だと騒がれておりますが、樋口一葉の生きた時代も明治初期の社会的な混乱にあり、時代の大きな波を受け止め、生活にも苦しみながら文学活動に取り組んだようです。それが大変なエネルギーだったことは想像に難くありません。
 それを二十四才で結核に倒れる直前の一年間に凝縮したかのように、(著作のほとんどがこの一年間のもの)著作を発表しています。その後、まるで燃え尽きるかのように亡くなりましたが、その作品は今でも人々の心を捉えています。
 樋口一葉のお墓は桜並木から二本目の参道を左に入った所です。桜並木沿いには案内板もありますが、わかりにくい場合はお気軽に事務所までお訪ねください。

五世・六世川柳

新聞や雑誌に目を通すと、必ずといっていいほど掲載されているものの一つに「川柳」があります。「サラリーマン川柳」や「時事川柳」など、その時々の世相や自分の気持ちなどを五・七・五の十七文字の中で表現し、おもしろみの中にも考えさせられることがしばしばです。さて、この川柳にも宗家があったことを皆さまご存知でしょうか。今回は歴代宗家の五世・六世川柳を紹介いたします。
川柳が発生したのは江戸時代に生まれた柄井八右衛門(号…川柳)の柳号からきています。当時、八右衛門の選句によって選ばれた句が人気を呼び、『拝風柳多留』等の選集も刊行され「川柳」と呼ばれるようになりました。その後、代々宗家によって受け継がれるようになり、その五世と六世のお墓が当廟所にあるのです。五世(水谷金蔵)は江戸時代最後の宗家で、柳風狂句を創始し、その他にも「柳風式法」を明文化します。それを六世(水谷謹)が当時あった大小の作者グループを組織して柳風会をつくり、その憲章としました。両者は佃島で魚問屋を経営するかたわら、様々な形で川柳の発展に寄与します。特に六世は、佃島の船頭が六世を訪ねる客からは渡船料をとらなかったといわれるほど名望が高かったそうです。
五世・六世のお墓は桜並木から二本目の参道を左手に入ってすぐのところにあります。わかりにくい場合はお気軽に事務所までお尋ねください。 (文中敬称略)

中村汀女

少し古い話になりますが、『声に出して読みたい日本語』という本が話題になったことがあります。誰もが学校で習ったり、一度は聞いたことのある美しい旋律の日本語を集めた本でした。それを読みながら、日本語というものはこんなにも豊かな表現力を持つものかと改めて驚かされましたが、同時に作る人の感性も非常に大切なのだということも感じさせられました。今回紹介する中村汀女は女性らしい感性で繊細な気品のある表現と暖かい叙情性で、現代の人々に俳句というもののすばらしさを改めて認識させたひとりです。
 汀女は熊本で生まれ、十八歳の時に九州日日新聞に投句したものが激賞されたのをきっかけに俳句の創作を始めました。二十歳で結婚し、その後は一時創作活動を中止しますが、高浜虚子の指導を受けながら、三十歳で横浜に移り住むと同時に『ホトトギス』の同人として本格的な活動を再開します。最も有名な句といえば、
外にも出よ
 触るるばかりに 春の月
の一句でしょう。世田谷区の羽根木公園には句碑もあります。戦後には『風花』を創刊主催するなど精力的に活動し、昭和五十四年には熊本市の名誉市民にもなりますが、一九八八(昭和六十三)年九月に東京で亡くなっています。
 汀女は世田谷に住んでいた際には自然を好み、よく散策をしていたそうです。みなさまも親しい方と連れだって自然に触れる事ができれば、瑞々しい感性が育まれるよい機会となるのではないでしょうか。中村汀女のお墓は境内のほぼ中央、桜並木を左手に入った所になります。 (文中敬称略)

服部良一

新年を迎え、平成も十六年となりました。平成生まれがもう高校生になることを思えば、時の流れというものはやはり光陰矢のごとしといったところでしょうか。そのような忙しい日常の中で、ふと音楽や歌によって昔を思い出すということがあります。「東京ブギウギ」や「青い山脈」「銀座カンカン娘」などと聞けば、懐かしいといわれる方もきっと多いことでしょう。今回はそうした時代の名曲を数多く残した服部良一です。
昭和のジャズ・ポップス史をつくったといわれる服部ですが、戦時中はラジオ・オペラ「桃太郎」が開戦により中止になるなど様々な苦労があったようです。
皆さまは戦時中に、「夢去りぬ〔Love's gone〕」という歌が流行ったことをご存じでしょうか。この作曲者名は戦時中はR.Hatterとなっているのですが、戦後には、服部良一作曲として発表されています。戦時体制下で世論を慮ったレコード会社が、外国人らしい名前をつけて発表したそうです。 その後終戦を迎え、笠置シズ子との一連のヒット曲など人々に愛された服部は、日本作曲家協会の会長を務めるなど音楽の振興に生涯を傾け、平成五年一月三十日にその生涯を閉じたのでした。
日本ポップ・ミュージックの基本と称される服部良一のお墓は、正門を入ってすぐ左の参道の三本目を右に曲がったつきあたりにあります。わかりにくい場合は事務所までお問い合わせください。(文中敬称略)

麻田駒之助

その昔京都の西本願寺から生まれた雑誌があったことを皆さまご存じでしょうか。今月はその出版社の初代社長に就任した麻田駒之助を紹介いたします。
この雑誌が生まれたのが明治十九年四月のことで、もともと西本願寺の普通教校(現在の平安高校)創立有志学生の間で生まれた「反省会」という団体の機関紙として誕生しました。それは『反省会雑誌』と呼ばれ、明治・大正と続く時代の変遷に名前を変えながらも出版を続けていきます。当時、これを支援していたのが鏡如上人(本願寺第二十二代門主)でした。明治という近代化の波が激しく巻き起こる時代の中で「反省会雑誌」から『中央公論』へと名前を変え、発行所も東京へ移ります。明治四十五年に滝田樗陰が主幹となり、夏目漱石や吉野作造などを起用して評判となりました。この滝田の後を継いだのが麻田駒之助なのです。大正時代には民主主義など、当時としては新しい思想を積極的に取り入れ、大正デモクラシーのなかでその存在を示しましたが、麻田が会社設立後の初代社長となったのは大正十五年。関東大震災の傷跡も癒えぬころでした。しかしながら、麻田は設立からの気風をよく伝え、その後主幹であった嶋中雄作に事業を引き継ぎ、代を重ねて現在まで発刊が続いています。また麻田は築地本願寺の財政面に参与する『勘定』として、力を尽くされました。
麻田駒之助のお墓は桜並木の手前、左側にあります。わかりにくい場合はお気軽に事務所までお尋ねください。(文中敬称略)

レオナルド熊

今年も残すところ一月のみとなりました。様々な事件や災害がありましたが、悲しみの中にも人々に希望をあたえてくれるのが「笑顔」です。仏教には「和顔愛語」の言葉がありますが、笑顔ができるのは動物の中でも人間だけです。今回はたくさんの「楽しさと笑い」をお茶の間に届けて、人々に笑顔をあたえてくれたレオナルド熊を紹介いたします。
「レオナルド熊」といえばコメディアンとして、また俳優やCMを思い浮かべる方も多いかと思います。「いかにも一般大衆の喜びそうな…」というビールのCMは当時の流行語になりました。しかし、もともとこの芸名ではなく、最初は「ラッキーパンチ」というコンビを石倉三郎(現在俳優として活躍中)と組み、最終的に「コント・レオナルド」として全国的に人気がでました。(花王名人大賞名人賞等受賞)
コント以外でも「男はつらいよ」や「北の国から」シリーズに出演するなど俳優としても活動し、解散後も映画やテレビで活躍を続けました。
一九九四年十二月十一日に心不全のため亡くなりましたが、その後も、弟子が中心となり七回忌に追悼公演が行われるなど、「熊さん」として皆から親しまれた人柄はいまだに人々の心に残っています。
レオナルド熊のお墓は正門を入って右手、光寿閣の東側にあります。わかりにくい場合はお気軽に事務所までお声掛けください。(文中敬称略)

和田堀廟所本堂

和田堀廟所は今年本堂復興五十周年・開設七十周年を迎えます。この欄では毎月廟所内にある著名人のお墓を紹介していましたが、今号は五月二十二日(土)・二十三日(日)に宗祖親鸞聖人降誕会並びに本堂復興五十周年・廟所開設七十周年記念法要を厳修するにあたり、廟所の歴史を紹介させていただきます。
大正十二(一九二三)年の関東大震災で築地本願寺が罹災し、再建にあたって境内にあった多数の墓地を移転する必要にせまられました。当時の大蔵省所管だった陸軍省火薬庫跡地約一万一千坪の払い下げをうけ、築地から仮本堂として使用されていた建物などを移築して和田堀廟所が設立されます。当時は児童公園や幼稚園が併設され、本堂も瓦葺の木造であるなど現在とはかなり趣の違うものでしたが、それも昭和二十(一九四五)年五月二十五日の空襲によって御本尊および御影を除き悉く焼失してしまいます。しかし、戦後の混乱が続くなか、有縁の方々のご苦労により、インド仏教様式の新本堂が再建され、昭和二十九(一九五四)年に大谷光明猊下の御親修で落慶法要が勤められました。
読者のみなさまも多くの人々の心の拠り所としてともに歩んできた和田堀廟所の歴史を振り返りながら、記念法要にぜひご参拝ください。

海沼實

 廟所の境内が満開の桜で彩られた四月六日、「はなまつり」が盛大に開催され、多くのみなさまにご参拝いただきました。
 さて私たちの住む日本は春の桜のように四季の彩に包まれています。今月は、そうした様々な日本の美しい自然を童謡で表現した作曲家・海沼實(一九七一年没)をご紹介します。
 海沼實は、皆さまも一度は聞いたことがある「みかんの花咲く丘」「里の秋」「おさるのかごや」などの童謡を作曲したことで知られます。長野県(松代)で生まれ、幼少から音楽家を志し、二十三歳で上京すると東洋音楽学校に入学。と同時に、護国寺(文京区)の好意により境内の一室を無償で借り、音楽教室を開きます(これがのちに児童合唱団『音羽ゆりかご会』へと発展しますが、その名づけ親は北原白秋でした)。
 仏教(寺院)と童謡というと、一見なんの関わりもないようですが、童謡運動の初期に発行された雑誌『金の塔』は「大日本佛教コドモ会」が発行元でしたし、ここから「しゃぼん玉」などの名作が生まれたのでした。
 「音羽ゆりかご会」は今年、創立七十周年とのこと(現在の本部は目黒区三田)。海沼實の「音楽を通じて、子ども達の心に栄養を与えたい」という信念はいまも大切にされています。
 廟所に参拝される折に、昔聞いた童謡を思い出しながら、海沼實のお墓を訪ねてみてはいかがでしょうか。(文中敬称略)

前田慧雲

和田堀廟所に建つお墓は約四千五百を数えますが、区域によって呼び名が違います。その中の一つに「勧学区」という区画があり、その由来となっているのが今回紹介する前田慧雲のお墓です。
慧雲は安政二年(一八五五年)に伊勢で生まれ、十二才の時から天台学や経史詩文を学び、明治二十年(当時の)本願寺派宗主明如上人の知遇を得て学問所主事となります。以後同派大学校副総理や諸大学学長を歴任するかたわら、仏教や真宗に関する著書を数多く発表し明治三十七年に勧学となりました。
(「勧学」とは本願寺派にある学階制度の一つです。宗意安心や教義に関する重要事項を審議する機関を勧学寮といい、勧学の学階を持つ人で構成されています。)
また、慧雲は膨大な著作を残した学者としてだけでなく、廃仏毀釈が巻き起こり仏教への風当たりが強い中、大内青巒等とともに仏教への啓蒙運動を展開するなど精力的に活動する一面もありました。書画にも堪能で「止舟」又は「含潤道人」と号して作品を残しました。著作は『前田慧雲全集』に収められ今でも貴重な研究資料として使用されています。
慧雲のお墓は本堂左手後方の参道を道なりに進み、つきあたりを左に曲がった所にあります。わかりにくい場合はお気軽に事務所までお尋ねください。 (文中敬称略)

九條武子夫人

「おほいなるものの ちからにひかれゆくわがあしあとの おぼつかなしや」
築地本願寺の境内にある歌碑に刻まれているこの歌の作者は九條武子夫人。仏教婦人会の創設や社会福祉事業に尽力し、また歌人としても『無憂樹』(あそか)がベストセラーになるなど、多彩な活動を続けられました。
今般イラクでの国際貢献の在り方についていろいろ議論されていますが、武子夫人が歩まれた時代にも関東大震災という未曾有の災害が関東地方を襲い、自らも罹災者でありながらその救護に尽力されました。
「病める人の母となり友となって、施療とともに精神的な安らぎを与えること」これは震災後の救護所(現あそか病院)建院時の言葉です。病気やケガで苦しいのは身体だけではなく、心もまた同じである。こうした暖かな心が、罹災者にとって一番嬉しかったのではないでしょうか。
診療所は当初上野・日比谷の二ヶ所に置かれましたが数ヶ月で閉鎖され、その三ヶ月後、新たに本所緑町の借地に設立されました。移転までの間も休むことなく、医師と看護師を伴い一軒一軒家々を廻って慰問活動を続けられました。
自らが先頭に立ち社会福祉活動や仏教婦人会の設立等様々な活動を、昭和三年早春に過労で亡くなるまで続けられました。そのご苦労は今も受け継がれ、当廟所でも毎年命日の二月七日に如月忌をおつとめし、ご遺徳を偲ばさせていただいています。
武子夫人のお墓は本堂の左後方にあります。わかりにくい場合は事務所までお尋ねください。

嶋中雄作

最近の調査で日本人の読解力が低下してきているとの報告がありました。若者の活字離れが原因ともいわれていますが、活字を自由に読めるありがたさが薄れてきたのかもしれません。今回紹介する嶋中雄作の時代には戦時中で自由に作品が読めないこともしばしばでした。
嶋中は昨年の十一月号で紹介した麻田駒之助から中央公論社を引継いで社長となり、また「婦人公論」の創刊や「国民学術協会」の設立に尽力した文人です。しかし、就任当時は苦労も多く、財政の立て直しや経営路線の変更を経て、『西部戦線異状なし』のベストセラーで危機を脱しました。その後谷崎潤一郎訳の『源氏物語』を刊行しますが、谷崎は嶋中の公私にわたる支えを非常に感謝しています。(源氏物語でさえ時局柄穏当ではないとの理由で削除等の検閲があった)当時、陸軍の標語「撃ちてし止まむ」を掲載しなかったため軍部に目をつけられていた中央公論社も『生きている兵隊』の掲載を巡る発売禁止、「横浜事件」(戦中最大の言論弾圧事件)による拘留・会社の自主解散など苦難の時代を迎えます。終戦後に「中央公論」「婦人公論」が復刊され、まるでそれを見届けたかのように、一九四九年に嶋中は息をひきとりました。
生涯を出版と文化の発展に尽くした嶋中雄作のお墓は桜並木の手前を右に入ってすぐの所にあります。わかりにくい場合はお気軽に事務所までお尋ねください。(文中敬称略)

土生玄碵

土生玄碵は江戸時代の蘭方医で、当時日本で鍼を使った白内障の治療法を考案した眼病に関する第一人者でした。このような説明よりも「シーボルト事件」(シーボルトから眼科手術に必要な薬草を教授してもらい、そのお礼に将軍下附の紋服を贈与した為に罰せられた)や映画「男の花道」(長谷川一夫主演)のモデルになった人物といった方が思い出しやすいでしょう。このように大変高名であったので、以前からお墓への参拝者は少なくなかったようです。
 シーボルト事件で連座した人物というとあまり良いイメージを持たれない人が多いかも知れませんが、このとき玄碵が「将軍から拝領したものを外国人に贈ったことがわかれば死罪は免れないだろうが、この薬があれば多くの国民を病から救うことができる。我が身はどうなってもよいと思った」と言っているように、人々に対して義侠に厚い人物でもあり、その志は広く民衆に受け入れられていたようです。
 現在はメガネやコンタクトレンズの普及で、視力で困るということは少なくなったように感じますが、玄碵が治療法を考案した白内障は、九十才代で罹患率がほぼ一〇〇%になるといわれています。このような病に対する医学の進歩の陰には玄碵のように、人々のためにつくす努力があったことを忘れてはならないと思います。
 玄碵のお墓は先月号に掲載された古賀政男のお墓のすぐそばにあります。わかりにくい場合は事務所までお尋ねください。(文中敬称略)